結論から言おう
なぜ今の時代に、あえてマニュアル(MT)車に乗るのか。 その答えは極めて単純だ。「移動」を「対話」に変えたいからである。
多くの人にとって、自動車は単なる移動手段に過ぎない。A地点からB地点へ、いかに快適に、いかに安全に、そしていかに何も考えずに到達できるか。現代の自動車工学はその一点を目指して進化を続けてきたし、その努力には元技術屋として敬意を表する。しかし、私は運転席に座るとき、楽をしたいわけではない。私は、鉄と油とゴムでできたその巨大な機械と、対等な関係でいたいのだ。
アクセルを踏めば進み、ブレーキを踏めば止まる。オートマチック(AT)車や電気自動車(EV)は、運転手の意思を電気信号に変え、コンピューターが最適解を弾き出して車体を制御する。そこには「介在」がある。高度に洗練された介在だ。だがMT車は違う。クラッチペダルという左足のスイッチひとつで、エンジンの鼓動をタイヤに伝えるか、断ち切るかを私が決める。ギアの選択も私次第だ。機械は私の命令に忠実に従うだけだ。そこには誤魔化しがきかない厳しさがあるが、同時に、機械と神経が直結したかのような全能感がある。
不便? その通りだ。渋滞になれば左足は痙攣しそうになるし、坂道発進では一瞬の緊張が走る。だが、その不便さの中にこそ、人間が機械を操るという行為の本質、そして喜びが隠されている。私がMT車を選ぶメリット、それは「退屈な移動」が「濃密な時間」へと昇華される、その一点に尽きる。
雪山への道程

私がMT車にこだわる最大の理由は、趣味のスノーボードと密接に関係している。 冬になれば、私は頻繁に雪山へと車を走らせる。東京から関越自動車道を抜け、国境の長いトンネルを抜ければ雪国だ。路面状況は刻一刻と変化する。乾燥路からウェットへ、そしてシャーベット、圧雪、アイスバーンへ。
最新の四輪駆動システムを搭載したAT車は優秀だ。滑る前に制御が入る。人間が気付くよりも早く、車が「おっと、滑りそうですよ」と判断し、トルクを配分する。安全だ。文句のつけようがない。だが、雪道において私が何よりも重視するのは、路面とのコンタクト感覚、いわゆる「インフォメーション」だ。
MT車の場合、タイヤが雪を噛んでいる感覚、あるいは氷の上で空転しそうになる予兆が、シフトノブとクラッチペダルを通じてダイレクトに伝わってくる。AT車にあるトルクコンバーター(流体継手)の滑りがない分、エンジンの回転とタイヤの回転が直結しているからだ。 例えば、長い下り坂のアイスバーン。フットブレーキを踏むのはリスクが高い。タイヤがロックしてコントロールを失う可能性があるからだ。ここでMT車の真骨頂が発揮される。適切なギアを選び、エンジンブレーキだけで下っていく。アクセルオフの状態で、エンジンという抵抗を利用して速度を殺す。この時、どの程度の減速Gがかかっているかを微細にコントロールできるのは、やはりマニュアルなのだ。
自分の命を乗せて走る鉄の塊を、コンピューター任せにせず、自分の手足で制御下に置く。雪道という過酷な環境下では、その「支配している感覚」こそが、最大の安心感につながるのである。
左足の哲学

元エンジニアの端くれとして言わせてもらえば、自動車の変速機というのは奇跡のようなメカニズムだ。 限られたエンジンの回転数を、速度域に合わせて有効活用するためにギア比を変える。それを自動でやってのけるATの仕組みを考えた人間は天才だと思う。だが、人間というのは贅沢な生き物で、あまりに便利すぎると、今度は「退化」を恐れ始める。
MT車の運転は、全身運動だ。 右足でアクセルとブレーキ、左足でクラッチ、左手でシフトノブ、右手でステアリング。これらを協調させ、タイミングを合わせる必要がある。脳内では常に次の動作のシミュレーションが行われている。「もうすぐ信号が赤になる。今は3速、ブレーキを踏みつつクラッチを切り、2速へ落としてエンジンブレーキを併用、停止直前にニュートラルへ」。この一連のプロセスを、無意識レベルで行えるようになるまで反復する。
これは認知症予防にいいのではないか、と真剣に思うことがある。 AT車に乗っていると、時折強烈な眠気に襲われることがある。高速道路の巡航中など、右足をただ置いておくだけの単純作業が続くからだ。人間は単調な刺激にはすぐに順応し、意識レベルを低下させる。これを「ハイウェイ・ヒプノーシス(高速道路催眠現象)」と呼ぶらしいが、MT車ではこれが起こりにくい。常にエンジンの音を聞き、回転数を確認し、最適なギアを探っているからだ。脳が休む暇がない。
さらに言えば、昨今問題になっている「ながら運転」も、MT車なら物理的に不可能に近い。片手が塞がり、左足も待機状態で、どうしてスマホを操作できようか。MT車に乗るということは、運転という行為そのものに没頭することを強制される。この強制力こそが、現代における一種の贅沢であり、安全装置なのではないだろうか。
ブラックボックスを開ける

小説を書くとき、私はトリックの整合性を何よりも重視する。読者が「そんな馬鹿な」と思うような展開でも、そこに論理的な裏付けがあれば、それは驚きへと変わる。逆に、どんなに派手な展開でも、理屈が通っていなければ白けるだけだ。 私にとって、現代の多くのブラックボックス化された製品は、理屈の通らないフィクションのように感じられることがある。
ボンネットを開けても、最近の車はプラスチックのカバーで覆われていて、エンジンの姿さえまともに拝めない。故障すれば、パソコンを繋いで診断だ。それはそれで正しい進化なのだが、どこか寂しい。 MT車の構造は、枯れた技術の集大成だ。クラッチ板がフライホイールに押し付けられ、動力が伝わる。ギアが噛み合い、回転数が変わる。その物理的な挙動が、操作感として手に取るようにわかる。
「ヒール・アンド・トウ」という技術がある。減速しながらシフトダウンする際、右足のつま先でブレーキを踏みつつ、踵でアクセルを煽ってエンジンの回転数を下のギアに合わせる技だ。これがピタリと決まると、変速ショックは皆無、車体は滑らかに減速し、コーナー出口で鋭い加速体制に入れる。 この瞬間、車と私が一体化したような快感が走る。 機械の仕組みを理解し、その物理法則に従って最適な操作を行う。すると機械がそれに応えてくれる。これは、難解なパズルが解けた時の快感に似ているし、あるいは意中の相手と会話が弾んだ時の高揚感にも似ている。
ブラックボックスの中身を、自分の技術で紐解いていく感覚。それが、MT車には残されている。技術が進歩し、自動運転が目前に迫る今だからこそ、あえて人間の介在余地を残したこの機械に、愛おしさを感じるのだ。
不完全な人間、完全な機械

人間はミスをする生き物だ。 MT車に乗っていると、それを痛感させられる日がある。疲れている時、悩み事がある時、シフト操作が雑になる。クラッチを繋ぐタイミングが僅かにずれ、車体がギクシャクする。エンストこそしないものの、同乗者がいれば不快に思うレベルの揺れが生じる。 車は正直だ。「おい、今日の主人は調子が悪いぞ」と、車体全体で訴えてくる。
AT車なら、私の多少の乱れなど、トルクコンバーターの流体が優しく吸収してくれただろう。私のコンディションに関わらず、常に80点の運転を提供してくれる。それは素晴らしいことだが、自分の調子の悪さを自覚できないままハンドルを握り続けることにもなる。
MT車は鏡だ。 自分の精神状態、身体能力の衰え、集中力の欠如。それらを残酷なまでに映し出す。だからこそ、私は背筋が伸びる。スムーズに走らせることができた日は、「ああ、今日も自分は大丈夫だ」と確認できる。 年齢を重ねれば、反射神経も動体視力も落ちていく。それは避けられない物理現象だ。だが、その衰えを機械の補助で隠蔽するのではなく、技術と経験で補い、あるいは衰えそのものと向き合いながら走る。それが、老いていく自分自身への誠実な態度ではないかと思うことがある。
以前、ある編集者と車について話したとき、彼は「MT車なんて、オートマチックの洗濯機があるのに洗濯板を使うようなものですよ」と笑った。 言い得て妙だ。だが、私はこう返した。 「大切な服を洗うときは、手洗いをするだろう? 汚れの落ち具合を指先で確かめながら。僕にとって運転は、それと同じなんだ」
沈黙の対話
夜の山道を走るのが好きだ。 対向車もほとんどない、静寂に包まれたワインディングロード。ヘッドライトが切り裂く闇の先を見つめ、次のカーブの曲率を予測する。 ブレーキ、クラッチ、シフトダウン。エンジンが高らかに歌い、タコメーターの針が跳ね上がる。ステアリングを切り込む。タイヤが路面を掴む感触。クリッピングポイントを過ぎ、アクセルをじわりと踏み込む。背中がシートに押し付けられる。
この一連の流れの中に、言葉は存在しない。音楽もいらない。 聞こえるのはエンジンの吸排気音と、タイヤのロードノイズ、そして風切り音だけだ。だが、そこには濃密な対話がある。 車が「もっと踏めるか?」と問いかけ、私が「いや、路面が怪しい」と返す。あるいは私が「ここは一気に行くぞ」と意志を示し、車が「了解」と応える。
孤独な作業のように見えて、決して孤独ではない。 そこには、自分自身との対話もあり、この車を設計したエンジニアたちとの対話もある。「ここのギア比、絶妙だな」と感じた時、私は会ったこともない開発者と握手をした気分になる。
ラスト・ギア
目的地である雪山の駐車場に到着する頃には、体は程よい疲労感に包まれている。 エンジンを切り、サイドブレーキを引く。静寂が戻ってくる。 雪の上に降り立ち、冷たい空気を肺いっぱいに吸い込む。パキン、パキンと、熱を持ったエンジンが冷えていく音が聞こえる。それは、共に戦った相棒が息を整えている音のようにも聞こえる。
マニュアル車を選ぶメリット。 経済合理性で語れば、燃費もATに追い抜かれ、車両価格も安くはなく、下取り価格も車種による。メリットなどないと言い切る人もいるだろう。 だが、人生の豊かさとは、効率の中にあるのだろうか。 無駄なこと、面倒なこと、思い通りにならないこと。それらに時間を割き、工夫し、自分の技術で乗り越えていく過程にこそ、生きている手応えがあるのではないか。
帰り道、疲れた体で再びクラッチを踏む時、私はきっと思うだろう。「ああ、面倒くさい」と。 そして同時に、口元が緩むのも知っている。 自分の意思で選び、自分の手足で操る自由が、そこにはあるからだ。 車が自動で動く時代が来ても、私は最後の最後まで、自分でギアを選ぶ人間でありたい。 それが、私のささやかな抵抗であり、誇りでもあるのだ。






