2007年、レクサスは自らのブランドイメージを新たなステージへと昇華させる一台のセダンを発表した。その名は「IS-F」。欧州の強豪ひしめくDセグメントのスポーツセダン市場に、日本の技術の粋を結集して投じられた刺客である。「F」の名は、開発の聖地である富士スピードウェイの頭文字に由来する。その名が示す通り、IS-Fは単なる高性能版ではなく、サーキットでの極限走行を想定してゼロから鍛え上げられた、妥協なきハイパフォーマンスマシンである。本稿では、2007年から2014年までの生産期間にわたり、進化を続けたこの特別なモデルの全貌を、年式による変遷やリアルなインプレッションを交えて深く掘り下げていく。
基本スペック

項目 | スペック |
---|---|
エンジン | 2UR-GSE V型8気筒 DOHC |
総排気量 | 4,968cc |
最高出力 | 423 PS (311 kW) / 6,600 rpm |
最大トルク | 51.5 kgm (505 Nm) / 5,200 rpm |
トランスミッション | 8-Speed SPDS (電子制御8速AT) |
駆動方式 | FR (後輪駆動) |
0-100km/h加速 | 約5.1秒 |
最高速度 | 305 km/h (国内仕様は180km/hリミッター) |
車両重量 | 約1,690 kg |
ボディサイズ | 全長 4,660mm × 全幅 1,815mm × 全高 1,415mm |
タイヤサイズ | 前: 225/40R19, 後: 255/35R19 |
新車時価格 | 約780万円 (2007年発表時) |
技術的特徴

心臓部:ヤマハと共作したV8エンジン「2UR-GSE」
IS-Fの存在を最も象徴するのが、そのボンネット下に収まる5.0リッターV型8気筒自然吸気エンジン「2UR-GSE」である。これは単なる大排気量エンジンではない。トヨタが誇るエンジン技術と、楽器からレーシングエンジンまで手掛けるヤマハ発動機の匠の技が融合した芸術品だ。
F1エンジンの開発経験も活かされ、吸気バルブには軽量なチタンを採用。ロッカーアームの摺動部にはダイヤモンドライクカーボン(DLC)コーティングを施すなど、高回転化とフリクション低減を徹底的に追求。これにより、レブリミット7,000rpmまでストレスなく吹け上がる鋭いレスポンスを実現した。燃料供給システムには、筒内直接噴射とポート噴射を状況に応じて最適に使い分ける「D-4S」を採用し、大排気量ながら環境性能と燃費効率にも配慮している。
また、サーキットでの高G旋回時にも安定したオイル供給を可能にするため、ウェットサンプ方式ながらスカベンジングポンプを追加装備。これは横Gでオイルパンの片側に偏ったオイルを強制的に回収し、オイルストレーナーへ供給する仕組みであり、極限状況下でのエンジン保護と性能維持に対する執念の表れである。
電光石火の変速:8-Speed SPDS
この強力なエンジンに組み合わされるトランスミッションは、LS460用の8速ATをベースに開発された「8-Speed SPDS(Sport Direct Shift)」。特筆すべきは、マニュアルモード(Mモード)における変速速度で、ロックアップクラッチを積極的に活用することにより、わずか0.1秒という当時の量産車としては世界最速レベルのシフトチェンジを達成した。これはデュアルクラッチトランスミッション(DCT)に匹敵する速さであり、ドライバーの意図に即座に反応するダイレクト感は、従来のトルコン式ATの常識を覆すものであった。
富士スピードウェイが鍛えたシャシー
IS-Fのシャシーは、その名の由来である富士スピードウェイで徹底的に走り込まれ、セッティングが煮詰められた。サスペンション形式はフロントがダブルウィッシュボーン、リアがマルチリンク。ベースのISからスプリング、ダンパー、スタビライザー、ブッシュ類に至るまで全てが専用設計品に置き換えられ、ロール剛性を大幅に向上させている。
ブレーキシステムは、イタリアの名門ブレンボ社との共同開発品。フロントに対向6ポッド、リアに対向2ポッドのモノブロックキャリパーと、放熱性に優れる大径ドリルドローターを組み合わせ、サーキットでの連続周回にも耐えうる強力なストッピングパワーと耐フェード性を確保した。
年式による進化と変遷

IS-Fは7年間の生産期間中に、ユーザーの声やテストデータをフィードバックし、熟成を重ねていった。
- 初期型(2007年〜2009年):原石の輝き 発表当初のモデル。そのポテンシャルは圧倒的であったが、サスペンションが非常に硬質で、乗り心地は「スパルタン」と評されることが多かった。オープンデフを標準装備していたため、タイトコーナーからの立ち上がりなどでは、強大なトルクを路面に伝えきれない場面も見受けられた。
- 中期型(2009年〜2011年):走行性能の深化 2009年7月の年次改良で、待望のトルセンLSDが標準装備された。これによりトラクション性能が劇的に向上し、より安定して速くコーナーを駆け抜けられるようになった。この改良はIS-Fの評価を一段と高める決定的なものとなる。インテリアでは、USB端子の追加など利便性の向上が図られた。
- 後期型(2011年〜2014年):熟成の極み 2011年8月、最大の変更点としてサスペンションの大幅な改良が行われた。スプリングレートやダンパーの減衰力が見直され、リアのジオメトリーも変更。これにより、初期型で指摘された過度に硬質な乗り心地が改善され、しなやかさと路面追従性が向上。日常域での快適性と、限界域での操縦安定性を見事に両立させた。 エクステリアでは、L字型のLEDポジションランプを内蔵した新デザインのヘッドライトが採用され、よりモダンな表情へと進化した。2013年にはカーボン製リアスポイラーを装備した「ダイナミックスポーツチューニング」モデルが追加設定されるなど、最後まで改良の手が加えられ続けた。
ドライビングインプレッション

IS-Fのステアリングを握り、まず感動するのはエンジン始動時の咆哮だ。セルモーターが回った直後、「グォン!」という野太いサウンドとともにV8エンジンが目覚める。この演出だけで、ドライバーは非日常の世界へと誘われる。
街中をゆっくり流している限りは、ジェントルな高級セダンそのものだ。しかし、アクセルペダルに少し力を込めると、風景は一変する。3,600rpm付近を境に吸気経路が切り替わり、エンジンサウンドはバリトンボイスから甲高いレーシングサウンドへと変貌。背中をシートに叩きつけられるような、猛烈な加速が始まる。特に高回転域の伸びは凄まじく、自然吸気V8ならではの官能的なフィーリングは、現代のターボエンジンでは味わえない魅力に満ちている。
ハンドリングは極めてシャープだ。ステアリング操作に対する車体の反応は俊敏で、FRらしい素直な回頭性を示す。特にサスペンションが改良された後期型は、路面の凹凸をしなやかにいなしつつ、コーナリングでは絶大な安定感を発揮。トルセンLSDの効果も相まって、コーナー出口でアクセルを踏み込んでいく快感は格別である。
8-Speed SPDSのMモードは、まさに「思考するトランスミッション」。パドルを弾いた瞬間に、ブリッピング音とともにギアが切り替わる様は、レーシングカーさながらの体験だ。それでいて、Dレンジでの走行は極めてスムーズであり、日常の快適性を全く犠牲にしていない。この二面性こそ、IS-Fの本質と言えるだろう。
総評
レクサス IS-Fは、国産メーカーが本気で世界と戦うために作り上げた「情熱の塊」である。それは、スペックシートの数字だけでは語り尽くせない、ドライバーの五感に訴えかける魅力に溢れている。ヤマハと共作した官能的なV8エンジン、サーキットで鍛え上げられた強靭な足回り、そして年々熟成を重ねていった完成度。生産終了から時を経た今もなお、その価値が色褪せることはない。IS-Fは、日本の自動車史に燦然と輝く、一台のマスターピースなのである。
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