参政党を巡る言説の深淵を読み解く

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我々の目の前で繰り広げられる現代社会の様相は、時に複雑な機械仕掛けの時計のようである。一つ一つの歯車が噛み合い、精緻な動きを見せる一方で、どこか見えない部分で、我々の理解を超えた力が作用しているかのように感じられる。私が今、筆を執るのは、昨今の日本の政治状況において、ある種の「異物」としてメディアの俎上に上がることが増えた政党、参政党についてである。

彼らがなぜ、いわゆる「オールドメディア」からこれほどまでに批判され、その政策が問題視されるのか。その根底に横たわる人間心理、社会の歪み、そして、我々が直面する情報社会の危うさについて、私なりの視点から考察を巡らせてみたい。それは、単なる政治的論争を超え、現代を生きる我々が「真実」とどう向き合うべきかという、根源的な問いへと繋がるだろう。

「真実」の残像:多層的な現実の解釈

オールドメディアが参政党を批判する理由は、大別して三つある。第一に、「日本人ファースト」というスローガンが、排外主義的・差別的主張の拡大に繋がるという懸念だ。第二に、彼らの発言に真偽不明、あるいは明白な誤認に基づくものが多発している点。

そして第三に、メディアそのものを攻撃することで、自身の支持層を固めるという戦術だ。これらの指摘は、確かに客観的な事実に基づいているように見える。しかし、その背後には、我々が「真実」と信じてきたものが、いかに脆く、いかに簡単に揺らぎうるかという、不気味な問いが横たわっている。

例えば、「日本人ファースト」という言葉。一見すると、自国を優先する、ごく当たり前のナショナリズムの表れと捉えることもできるだろう。だが、TBSの「報道特集」が、このスローガンを外国人排斥の文脈と結びつけて報じた際、参政党側は「公平性・中立性を著しく欠く」と抗議状を提出したという。ここで重要なのは、どちらが絶対的に正しいか、ではない。同じ言葉、同じ事象を、受け取る側、伝える側が、それぞれ異なる文脈で解釈し、それを「真実」として提示する点にある。

オールドメディアは、彼らの主張が外国人への不当な差別や排斥へつながる恐れを指摘し、批判的に報道することで有権者への注意喚起を図っている。これは、メディアが社会の木鐸として果たすべき役割の一端である、と彼らは考えているのだろう。

だが、その報道の仕方が、逆に参政党支持者から見れば「偏向」と映り、彼らの主張がさらに強化される結果となっている。まるで、鏡合わせの世界で、互いが互いを歪んだ像として認識し合っているかのようだ。この現象は、現代の情報社会において頻繁に見られる「エコーチェンバー」と「フィルターバブル」の典型的な例と言えるだろう。人々は、自身の既存の信念を補強する情報に囲まれ、異なる視点や意見が届きにくい環境に陥りがちだ。

そして、根拠薄弱な発言の多発。宮城県の水道事業が「外資に売られた」という発言が、県側から訂正を求められたという事例は、まさにその典型だ。核武装論、ワクチンやマスクへの否定的見解といった「トンデモ発言」とされるものも、主要メディアのファクトチェックで「誤り」と判断されている。だが、ここで私は、かつて取材したある科学者の言葉を思い出す。

「人間は、自分が信じたいものを信じる生き物だ」と。どれほど科学的な根拠を提示しても、どれほどデータを示しても、心の奥底で「違う」と感じてしまえば、人はそれを容易に否定してしまう。

参政党の支持者たちは、もしかしたら、オールドメディアが提示する「真実」に、長年の不信感を抱いているのかもしれない。彼らは、既存のシステムや権威に対する疑念を抱き、そのオルタナティブな情報源として、参政党の主張を受け入れているのではないか。

それは、単なる「誤り」という言葉では片付けられない、複雑な感情の絡み合いがそこにあるように思える。彼らにとって、既存のメディアが報じる「真実」は、もはや「彼らの真実」であり、自分たちの抱える不安や不満を代弁する「別の真実」を求めているのだ。

これは、まさに「ポスト真実」の時代における、情報と感情の複雑な相互作用を示している。

疑心暗鬼の連鎖:情報社会の脆弱性

さらに興味深いのは、参政党がオールドメディアを「既得権益の一部」と見なし、批判を繰り返すことで自身の支持層を固めるという戦術だ。慶応大の津田正太郎教授が指摘するように、彼らは批判されるたびにSNS上で「偏向報道だ」と反発が盛り上がり、結果として無党派層や右派層からの結束を強めている。

これは、まさにポピュリズムの典型的な戦略である。共通の敵を作り出すことで、内なる結束を固める。そして、その敵とは、時に目に見えない巨大な権力であり、既存のシステムであり、そして、情報を操作する「メディア」である。

我々は、いつからこんなにも、互いを疑い、不信感を募らせるようになったのだろうか。かつて、メディアは「第四の権力」と呼ばれ、権力を監視し、真実を報道する役割を期待されていた。しかし、ネット社会の到来により、情報の流通は爆発的に増え、誰でもが情報の発信者となりうる時代になった。

その一方で、真偽不明な情報やフェイクニュースが蔓延し、何が真実で何が嘘なのか、見極めることが困難になった。

そんな混沌の中で、「オールドメディアも信用できない」という声が大きくなり、既存の枠組みから逸脱した情報にこそ「真実」があるのではないか、と考える人々が増えた。参政党は、まさにその隙間を巧みに突き、人々の心の奥底にある不信感を揺り動かしているのだ。それはまるで、古びた井戸の底から、新たな水源を見つけたと信じる者たちが、そこに群がり、濁った水を喉を潤すような光景に似ている。

そして、その水は、果たして本当に渇きを癒やすものなのか、それとも、新たな病の種を蒔くものなのか、誰にも分からない。この状況は、民主主義社会における情報リテラシーの重要性を、かつてないほどに浮き彫りにしている。情報の洪水の中で、自ら羅針盤を持ち、進むべき方向を見定める能力が、今ほど求められる時代はない。

理念の狭間、人間の影:政策の奥に潜むもの

さて、具体的に問題視されている参政党の政策や主張に目を向けてみよう。これらは、一見すると極端に見えるものが多い。

外国人政策における「日本人ファースト」の主張は、外国人排斥やヘイトスピーチに繋がる懸念があるとして、繰り返し批判されている。彼らは外国人の受け入れや権利制限を訴えるが、これは、グローバル社会において、国家間の協調や多様性の尊重が求められる現代の潮流とは逆行するようにも見える。だが、その背景には、自国の文化や伝統を守りたい、という純粋な思いがあるのかもしれない。

あるいは、経済的な不安や社会の変化に対する漠然とした恐れが、外国人への排斥感情へと転化している可能性も否定できない。人間は、不安を感じると、排他的になりがちだ。それは、生存本能に近い、根源的な感情なのかもしれない。しかし、歴史が示すように、排他的なナショナリズムは、往々にして悲劇的な結末を招いてきた。

終末期医療の自己負担化という主張も、倫理的な問題として大きく取り上げられている。彼らは、終末期の延命治療にかかる医療費を自己負担化し、「無駄な投資を減らすべき」と主張する。しかし、これは命の選別につながるとして、多くの批判を浴びている。実際に延命医療費が総医療費の約3%に過ぎないというデータも示されている中で、この主張が本当に医療費削減に繋がるのか、という疑問も残る。

だが、この主張の背後には、「限りある資源をどう分配すべきか」という、ある種の合理主義が働いているのかもしれない。あるいは、「生きる」ことの意味を、費用対効果で測ろうとする、現代社会の冷酷な一面が映し出されているようにも思える。人はいつか死ぬ。その避けられない事実に対して、人はどのように向き合うべきなのか。その問いの答えは、決して一つではない。

しかし、その答えを経済的合理性のみで導き出すことは、人間の尊厳という、より高次の価値を損なう危険性を孕んでいる。

そして、最も衝撃的なのが、障害者支援に関する「障害者は存在しない」と明記されたQ&Aの作成である。これは、87万人の障害者が診断を受け、法的支援も存在するにもかかわらず、障害者の社会的排除を助長する恐れがあると厳しく批判されている。

この主張は、あまりにも非人間的で、私の理解を超える。しかし、もしこれが、彼らが「正常」と考える状態からの逸脱を、文字通り「存在しないもの」として切り捨てようとする、ある種の理想主義の歪んだ形だとすれば、それは恐ろしいことだ。人は、自分と異なるものを排除しようとする傾向がある。

それは、古くから存在する人間の性であり、差別や偏見の根源にあるものだ。しかし、現代社会において、多様な人々が共生していくためには、そのような排他的な考え方を乗り越えていく必要がある。この主張は、社会が築き上げてきた共生の理念に対する、明確な挑戦と言えるだろう。

LGBT解消法の廃止を訴え、「LGBTは不必要」と繰り返し発言している点も、性的少数者の基本的人権を脅かし、差別の合法化につながるリスクがあるとして問題視されている。

「不必要」という言葉の裏には、彼らが「普通」と考える枠組みから外れる存在を認めない、という強固な意志が見え隠れする。だが、「普通」とは一体何なのだろうか。多様な個性が存在する人間社会において、「普通」という枠組みに押し込めること自体が、暴力になりはしないか。人は皆、それぞれ異なる。

その違いを認め、尊重することこそが、真の豊かな社会を築く上で不可欠なはずだ。人権という普遍的な価値を軽視する姿勢は、国際社会からの信頼を失うだけでなく、国内の分断を深めることにも繋がりかねない。

さらに、核武装論。「核武装が最も安上がりで安全を強化する策」という主張は、国家間の軍拡競争を招き、近隣諸国との緊張を高める危険性があると指摘されている。

これは、一見すると、非常に現実離れした主張のように思える。だが、彼らは、自国の安全保障を最優先に考えた結果、このような結論に至ったのかもしれない。恐怖は、人を極端な行動へと駆り立てる。

安全への過度な願望が、かえって危険な選択へと導いてしまう、という皮肉な現実がここにある。核兵器がもたらす壊滅的な影響を考慮すれば、その保有は極めて慎重な議論と国際社会との協調を必要とする。

そして、新型コロナ対応におけるワクチンやマスクの有効性否定。科学的根拠に反し、公共衛生を脅かす可能性があるとして批判されている。この背景には、科学に対する不信感、あるいは、政府や既存の権威に対する反発があるのかもしれない。人は、未知の脅威に直面したとき、様々な情報に惑わされ、何が正しいのか分からなくなることがある。

その中で、自分にとって都合の良い情報、自分の考えに合致する情報を選び取り、それを信じ込む傾向がある。それが、時には、集団としての適切な判断を妨げ、社会全体に大きな影響を及ぼすこともあるのだ。科学的知見を軽視する姿勢は、公衆衛生のみならず、社会全体の進歩を阻害する可能性を秘めている。

真実の行方、そして我々の選択:羅針盤を手に

オールドメディアが参政党を厳しく批判するのは、その主張が事実誤認や過激な排外主義、少数者排斥に直結していると彼らが考えているからだ。彼らは、社会の健全性を保つために、そうした危険な思想が広まることを阻止しようとしている。一方、参政党は、メディア批判を通じて支持者の結束を強化し、既存報道への不信を煽るというポピュリズム的戦略を展開している。これは、メディアが提供する情報に対する不信感を逆手にとり、自らの存在意義を確立しようとする巧妙な戦略だと言える。

しかし、この対立は、単なる政治的な争いとして片付けられるものではない。これは、**「真実とは何か」**という、我々人類が古くから問い続けてきた根源的な問いに直結する。情報は、もはや一部の権力者やメディアが独占するものではない。だが、その結果として、真実と虚偽の境界線は曖昧になり、誰もが自分の信じたい「真実」を選び取ることができるようになった。その自由は、同時に、大きな責任を伴う。

今後の社会において、有権者が情報の真偽を見極めるリテラシーを高めることが、民主主義の健全性を保つ鍵となるだろう。それは、他者の言葉を鵜呑みにせず、自らの頭で考え、複数の情報源を比較検討し、論理的に判断する能力を養うことだ。

そして、何よりも、異なる意見を持つ者に対しても、耳を傾け、対話しようとする姿勢が求められる。なぜなら、真実は、常に多面的なものだからだ。一つの視点から見た真実が、別の視点から見れば、まったく異なる様相を呈することもある。我々は、常に疑いの目を持つことを忘れず、しかし同時に、他者への想像力を失わないように努めなければならない。

この混沌とした情報社会の中で、我々はどう生きるべきか。私は、ただ一つ、確かなことがあると信じている。それは、人間が、常に他者との関係性の中でしか、真の自己を見出すことができない、ということだ。排斥ではなく、共生。対立ではなく、対話。

それが、いかに困難な道であったとしても、我々は、その道を歩み続けるしかないのだ。そして、その道の先に、かすかな光が見えることを、私は願ってやまない。それは、まるで、複雑なムーブメントを内包する時計が、それでもなお正確に時を刻み続けるように、社会がその多様性を保ちながら、未来へと歩みを進める姿に他ならない。

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